鷺宮の歴史をたどる 2001年版より



 


鷺宮その昔(1)


はじめに

鷺宮を流れる妙正寺川。以前は手を触れることができた川の水も、今は足元のずっと下をゴミと一緒に流れています。
大雨が降った後に、どこから来るのかとおもうほどの大量の茶色い水がゴーゴーと流れていくのを、子どもたちは面白がってのぞきこみます。以前はその水で橋が流され、水があふれて人々が大変な苦労をしたことなど、知る由もありません。
いつのまにか記憶が薄れ、日常のことが遠い昔になっていきます。町は発展という名のもとに、どんどんその姿を変えていきます。

けれども、いつの時代でも、人々はまぎれもなく豊かな生活を願って生きてきました。なぜ人々はその変化を望んだのか、なぜ町が変わっていったのか、私たちは記録しておかねばなりません。その変化は幸福な変化であったのでしょうか?簡単には答えの出る問題ではありません。
この章では、この鷺宮の町がいつ頃からどのように成立してきたのか、おおまかな流れをたどっています。

〔原始時代〕(今からおよそ2500年前まで)

鷺宮にいつの時代から人々が生活し始めたのか、はっきりしたことはわかりません。しかし、鷺宮にもいくつかの遺跡が発見されており、一番古いものは、先土器時代(石器時代)つまり今からおよそ13000年以上前の、人間が活動した形跡ではないかといわれています。(中野区No.5遺跡・白鷺2-37付近 れき石郡)

このころの中野付近は、今の気温より数度低く、富士山の四合目あたりの様子に似ていたと考えられています。

その後、縄文時代(今からおよそ13000年から2500年前)になると、気候も暖かくなり、湿地帯には水生植物が、台地には森林がしげり、動物や鳥類が数多く生息するようになりました。人々は、動物や木々の実を食料とし、川の水を飲料水にして生活をはじめました。鷺宮地域でも、今の妙正寺川の谷間に面した傾斜地(けいしゃち)に、この時代の遺跡が十ヶ所ほど発見されています。

私たちが今立っているこの場所に、原始時代の人々が住んでいたかもしれないと、想像するだけでなんだかわくわくします。(中野区No.1遺跡・八幡神社付近縄文土器・打斧など)
残念ながら今遺跡としてみることのできるところは残っていません。(中野区教育委員会・埋蔵文化財保護について参照)

〔古代〕(今からおよそ2500〜800年前まで)

このころになると自然の恵みに頼る暮らしから、畑を作って食料を生産する時代となります。残念ながら鷺宮地域にはこの時代の遺跡は見当たりません。人々はもっと広い土地へ移っていったと言われています。

武蔵野の地域に、当時の大和朝廷の権力が伸びてきたのは、四世紀ごろといわれています。645年の大化の改新(たいかのかいしん)以後に、武蔵国がおかれたという説が有力です。701年の大宝律令(たいほうりつりょう)後は、鷺宮地域は武蔵国多麻(多磨または多摩)郡・海田(あまた)郷に属していたようです。このあたりはぼうぼうと木が生い茂る荒れ野で、人の生活した記録は見当たりません。

〔中世〕(今からおよそ800〜400年前まで)

1192年(建久3年)に武士政権の鎌倉幕府が開かれました.武蔵野地域の有力な武士は江戸氏であり、鷺宮地域もその勢力下にあったと思われますが、そのころのことはよくわかっていません。

その後、社会は、南北朝から室町時代・戦乱の世とかわっていきましたが、それにともない鷺宮地域も豊島一族、江戸城を作った太田道灌(おおたどうかん)、上杉氏、北条氏の領地と変わっていきました。江古田公園内には、豊島氏側と太田氏側が1477年(文明9年)に激しく戦った場所として、古戦場碑が建てられています。
戦国大名たちは、自分たちの支配をより一層強めるために、検地(けんちー土地を調べる)や人改め(人口調査)を行ないました。1524年(大永4年)から北条家が関東地域を支配しましたが、そのときに行った検地の資料が残っています。鷺宮の地域が開発されてきたのは室町時代あたりと言われています。このころ中野地域には上沼袋・下沼袋・阿佐ヶ谷・和田・本郷を含んだ中野郷五ヶ村がありましたが、鷺宮の地域がどの村あたりだったかはわかっていません。

鷺宮の旧家で、系譜をこのころからたどることのできる家があります。例えば大野家は1381年(永徳元年)に、早舩家では1558〜70年(永禄年間)にここ鷺宮に移ってきたと伝えられています。
白鷺山福蔵院正幡寺も、鷺宮八幡神社もこの時代に開山創設されたといわれています。

鎌倉時代中期から室町時代にかけて、人々の信仰のよりどころとしてつくられた板碑(いたび)(石板でできた塔婆―とうば)が鷺宮からも発見されています。この板碑は必ず年号が入っているので大切な歴史の資料となるのです。(中野区板碑資料集参照)
(板碑 1360年頃のもの 福蔵院より出土など)

1590年(天正18年)北条家は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に降伏し、その所領のうち関東六カ国は徳川家康(とくがわいえやす)に与えられ家康は江戸城にはいりました。長かった戦乱の世が終わったのです。

〔江戸時代〕(今からおよそ400〜130年前まで)

1603年(慶長8年)徳川家康は江戸(今の東京)に幕府を開きました。その後豊臣氏を亡ぼすと、全国支配のしくみを確立していきました。

武蔵国多磨郡は、10の地域に分けられ、中野地域はそのなかの野方領に含まれていました。現在の中野区は、野方領54ヶ村のうち、中野・本郷・雑色・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮・江古田・上高田・片山の11ヶ村の地域です。(後に本郷新田・大場・新橋の3ヶ村が独立して14ヶ村となる)

上鷺宮村は今の鷺宮・上鷺宮・白鷺3丁目にあたります。(地図参照) 井上河内守正就・その子正利の知行地(ちぎょうちー領地)になった後、1645年(正保2年)より今川刑部直房(いまがわけいぶなおふさ)の知行地となり、その支配は明治まで続きました。142石(江戸初期)で、名主は大野氏・内田氏・早舩氏・篠氏の交代制でした。

下鷺宮村は今の若宮・白鷺1,2丁目にあたり、幕府の直轄地(ちょっかつちー天領)で138石(江戸初期)、名主は横山家の世襲(せしゅう)でした。
検地によって村の石高が決まると、農民には一定の割合で年貢(ねんぐ-今の税金のようなもの。米やお金で納めた。)が割り当てられました。これを滞り(とどこおり)なく納めるのは大変でした。また自分の土地を持たない小作農民もいました。

農民には年貢のほかにも、必要に応じて御用金(ごようきん)が課せられたり、道路や橋の建設や助郷(すけごうー人と馬をリレー式につないで荷物や手紙などを運ぶ)、御鷹野人足(おたかのにんそくー将軍の鷹狩(たかがり)のための準備や手伝いをする)などのさまざまな役目(夫役・課役)があり、大きな負担となっていました。

上・下鷺宮両村からは、中山道板橋宿に助郷として出ていました。さらに両村を含む一帯は、将軍家の御鷹場に指定されており、そこでは鳥をつかまえたり樹木を切ったりすることも制限され、苦労があったようです。この地域の鷹場の世話役は中野村の名主堀江家が世襲していました.

中野の地域でも南のほうは青梅街道を中心に商業も発達しましたが、鷺宮のある北の地域では純粋な農村地域として特別な産業が発達することなく、次の時代を迎えました。
上鷺宮村にはさきにのべた八幡神社とその別当寺の福蔵院、地福院、御嶽神社がありました。下鷺宮村には稲荷神社とその別当寺の仙蔵院があり、ともに人々の信仰のよりどころとなっていました。
この時代の地蔵や庚申塔(こうしんとう)などの石仏をみちばたに今でも見ることができます。どれも当時の人々の暮らしをしのばせるものです。(なかの史跡ガイド参照)
 


鷺宮その昔 (1)/(2)/(3)


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