鷺宮の歴史をたどる 2001年版より



 


鷺宮その昔(2)


〔明治維新〕(いまからおよそ130〜100年前まで)

1868年(慶応3年)第15代将軍徳川慶喜は大政奉還(たいせいほうかん)し武士の政権が終わりました。翌1868年(明治元年)江戸は東京と改められ、新しい時代が始まりました。国のしくみは大きく変わり、人々のくらしも変化していきました。

国を豊かに、強くするために様々な改革が行われました。身分制度が整理され、武士の特権も藩制もなくなりました。農民も土地を所有することができるようになりました。
行政区画も、変わりました。中野地域は武蔵知県事の管轄→品川知県事の管轄→東京府→神奈川県→東京府へと、その所属はめまぐるしく変わりました。人々は混乱しいろいろ不便も出ました。

1880年(明治13年)には、今の鷺宮小学校の前身である、双鷺小学校が開校しました。(別項・資料編・学校関係年表参照)
1889年(明治22年)町村制が施行され、中野地域は東京府東多摩郡の中野村(中野・本郷・本郷新田・雑色の4村をあわせた)と野方村(江古田・上鷺宮・下鷺宮・新井・上高田・上沼袋・下沼袋の七村をあわせた)の二村となりました。鷺宮地域は、野方村大字上・下鷺宮となりました。それまでの人々のつながりを考えない便宜的(べんぎてき)な村となりました。1896年(明治29年)には東多摩郡と南豊島郡は合併し豊多摩郡となりました。
このころの野方村鷺宮あたりはまだ静かな農村地域であり、人の出入りも少なく、江戸時代と大差ない日常であったようです。

〔都市化への道〕(明治時代後期・大正時代・昭和時代前期。関東大震災と第二次世界大戦)

日清・日露・第一次世界大戦と続けて戦争が起こりました。資本主義が発展し、いっそうの近代化が進み、首都東京はますます大きくなりました。中野の地域はこの時期に農村から近郊住宅地化がすすんできました。

1889年(明治22年)甲武鉄道(今の中央線)が開通し中野駅ができました。青梅街道が通り、江戸時代からすでに商業も発達していた中野村の都市化のスピードは野方村より速く、1897年(明治30年)に、中野村は中野町になりました。その一方で、野方村は近郊農業地域として東京に向けての重要な食料供給地の役割を果たし、野方村が町になったのは1924年(大正13年)のことでした。

大正4年の資料によると、野方村の戸数789戸うち6割にあたる471戸が農業に従事しています。特に鷺宮あたりでは、練馬大根の生産がさかんで、生だけでなく、たくあんに加工して市場に出していました。

地域にはこのころ、5軒から10軒ほどの組または組合というグループや、講の集まりがあり、互いにいろいろな助け合いをして暮らしていました。ひとのつながりを大事にした、村のくらしがありました。
この両村に急激な変化が訪れたのは、1923(大正12年)の関東大震災以後のことです。震災は全国的にも様々な影響をおよぼしましたが、なかでも多くの人が移り住むようになったことは、この地域に大きな影響をあたえました。地方から東京地域へ移ってくる人が増え、さらに人々は震災の被害の大きかった東京市内を避け中野などの郊外に住むようになったのです。

明治時代のおよそ40年間で中野・野方両村ともそれぞれ数千人ずつの人口の増加でしたが、震災後は中野町で年間で10000人弱の増加、野方村は年間5000人の増加で、そのペースは野方村のほうが大きく上回っていました。特に西武鉄道村山線(今の西武新宿線)高田馬場東村山間が開通した1927年(昭和2年)ごろの増え方は大きいものでした。このようにして今まで新しい人が入ってくることが少なかった鷺宮に、他の地域の人々が多く住み始めるようになり、畑や田んぼのあったところに、家々が建ちはじめました。 

急激な都市化で住宅が増えてくると、都市施設(上下水道や道路など)の整備が遅れ、伝染病が発生したりゴミやし尿処理などの深刻な問題が起きました。
昭和12年初めての交通事故が立て続けに2件おきました。それを悲しんで当時の福蔵院の住職が発起人となり、地域内の1500人もの人々の寄付を集め、交通厄除地蔵尊を建立しました。(現白鷺2-48)

ただ、都市化が進んできたといっても、鷺宮ではまだまだ川の水は澄み、森や林の緑も濃く、田畑がはるか遠くまで見渡せました。

1932年(昭和7年)10月1日東京市と豊多摩郡など5郡が合併し、35の区が成立しました。中野町と野方町は東京府東京市中野区となりました。上・下鷺宮は合わせて鷺宮1〜6丁目となりました。(旧上鷺宮は3〜6丁目、旧下鷺宮は1〜2丁目です。)鷺宮の人々は東京市民になったことを誇らしく感じたそうです。のち1943年(昭和18年)東京府・市は廃止され東京都となりました。
区成立と同時に、消防・警察・郵便の制度が整理され、地域では組に変わって町会・部落会・隣組の組織ができました。

鷺宮国民学校・学童疎開(福島県)
防空壕

日本はこのころから軍部が力を持つようになり、1937年(昭和12年)日中戦争が始まりました。その後第二次世界大戦に進展し、1945年(昭和20年)終戦するまで、人々はそれまで経験したことがないような大きな苦しみを味わいました。中野区でも何回か空襲に見まわれました。特に昭和20年5月25日の空襲(くうしゅう)では区の半分が焼け、鷺宮にも爆弾が落ちました。

戦時中は出征した人も多く、残された女性たちで訓練やきつい作業をしなければなりませんでした。国民学校初等科(今の小学校)の子どもたちは家族と別れ学童疎開(がくどうそかい)に行きました。もう少し大きな生徒は学徒動員で働らきました。空襲を避けて家族で疎開した人もいました。生活物資は足りなくなり、配給制になりました。その窓口になったのは町会および隣組でした。

鷺宮その昔 (1)/(2)/(3)

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