鷺宮の歴史をたどる 2001年版より



 


鷺宮その昔(3)


〔戦後のあゆみ〕(今から55年まえ〜現代まで)

日本はポツダム宣言を受け入れ、1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇は終戦を発表しました。

鷺宮では焼け野原になるほどの被害はありませんでしたが、各公共機関はすべてその機能を失い、交通機関はまひし、家や家族を失った人もたくさんいました。生活物資はさらに不足し、物価は上昇し、配給される食糧(しょくりょう)だけでは餓死(がし)しかねない状況でした。そのため農家へ着物を持って行き食べ物と交換したり家庭菜園で野菜を作ったりヤミ物資を手に入れたりと大変だったのです。それでも戦争が終わり空襲警報(くうしゅうけいほう)のない毎日は、何にもましてうれしく思えたものでした。

その後日本はめざましい発展をとげ、世界でも有数な近代国家となりました。
戦後の様々な時代の変化については、他にもいろいろ書物もあり、ここでは多くはふれませんが、基本的には何百年ものあいだ静かな農村地域であったこの鷺宮が、現在のような町に変わったのは、この時代の、中でも1960〜70年代にかけてのおよそ20年間だったといってもいいでしょう。

戦後のおよそ50年は大きく3つに分ける事ができます。

@ 戦後の復興期 1945年(昭和20年)〜55年(昭和30年)

連合国アメリカの支配下にあった7年間を含む戦後の復興を目指していた時期

疎開していた人や外国から引き上げてきた人が続々と戻り、また被害の大きかったところから移ってきた人もあり、鷺宮地域には新しい人々がどんどん入ってきました。
一時昭和21年3月から23年末まで転入抑制措置(てんにゅうよくせいそちー住宅や食糧が不足するため都内に転入できないようにした政策)がとられました。
戦時中人々の暮らしの中で重要な役目を担(にな)っていた町会制度は、民主化の妨げになるとして昭和22年に廃止され、町会などが行っていた様々な業務は区役所が代わりに出張所を設けて行うこととなり、6月に鷺宮出張所(現地域センター)がおかれました。

 戦争のきずあとがまだいたるところに残り、人々の心も荒れていることを心配した有志(ゆうし)は、鷺宮の町を元気づけるためにいろいろな活動を行いました。
そのひとつが昭和26年に発表された「鷺宮音頭(さぎのみやおんど)」です。何年か途絶えていたようですが、最近は毎年8月に鷺宮小学校で開かれる盆踊りで必ず踊られます。また同じころ福蔵院では、地域の交流の場として、豆まきが行われるようになりました。
 戦争で犠牲(ぎせい)になった子どもたちを救った愛児の家や聖オディリアホームの活動がここ鷺宮で始まった事は私たちの財産だといってよいでしょう。(別項・ふるさと鷺宮の記憶参照)

A 高度成長期 1955年(昭和30年)〜70年(昭和45)

戦争のきずあともようやく少なくなり迎えた高成長時代

朝鮮戦争をきっかけとして日本の経済は立ち直り、人々の暮らしはどんどん豊かになっていきました。
この昭和30年代から40年代にかけて、鷺宮の町は、それまでの静かな農村地域の姿を大きく変える変化の時期を迎えます。

おもに川沿いに都営住宅や都の住宅公社の団地の建設が相次いだころから町は変わっていきました。住宅が増え、田畑や雑木林、また湿地などの空き地はほとんどなくなりました。
人口はますます増えていきました。そのくらしを支えるため、消防・警察・保健衛生などの公的機関が充実し、都市施設の整備も始まりました。例えば道路を広げたり舗装(ほそう)したり、上下水道の整備をしたりといったことです。商店街には多くの商品がならびさらにスーパーマーケットができ、買い物のしかたも変わっていきました。増えた子どもたちのために小中学校の分校ができ、数年のうちに武蔵台小、西中野小、北中野中など相次いで独立し新設校としてスタートしました。(別項・資料編参照)

何度もおこる洪水からくらしを守るため、人々は妙正寺川の改修を働きかけました。そして昭和45年までに今私たちが目にするようなコンクリートの川が生まれました。(別項・鷺宮の自然参照)

戦後まもなく、国民統制の復活があってはならないと廃止された町会組織でしたが、人々の暮らしの中にはどうしても区の出張所ではカバーしきれない事がありました。たとえば慶弔や祭り、募金や敬老・子ども・婦人会の活動などです。もうひとつ当時行政では対応できなかった保健衛生に関する事、例えばカとハエを駆除(くじょ)するため消毒などや、道路や街灯の管理などがありました。そのため各地域に新しい自治会や町会などが生まれました。古くから鷺宮に住む人々と新しく移ってきた人々とが共にくらしを守っていったのでした。昭和36年鷺宮地区の町会連合会が発足しました。

住宅が増えてくるにつれ、番地の不明確なところや入り組んでいてわかりにくいところがあって不便になってきたので、昭和40年7月1日より鷺宮は、上鷺宮・鷺宮・白鷺・若宮の4つの町名に分かれる事になりました。長年親しんできた町名が変更になって、人々は一抹の寂しさを覚えました。

中杉通りには、鷺宮―新橋区間(都バス・西武バス・関東バスの相互乗り入れ)と練馬方面―阿佐ヶ谷または荻窪区間(西武バス・関東バス)等の路線バスが走り、便利でした。(昭和40年ごろ)のち自家用車が普及し、現在は路線が少なくなりました。

 このころ個人的な生活はずいぶんと豊かになりましたが、高度成長のひずみにより、住宅難や公害問題が起きるなど生活環境の悪化、生活のゆとりが叫ばれるようになりました。

B その後の鷺宮 1970年(昭和45年)〜

その後の低成長時代
生活に最低限必要な施設が整備されるにつれ、次には福祉・文化・教育などの施設や、施設(ハード)だけでなくソフト面の充実が求められるようになってきました。

昭和52年から区内の出張所は順次機能を拡大した地域センターになりました。鷺宮と上鷺宮にも地域センターが開設され、鷺宮地域は二つの地域に分かれる事となりました。このすぐ後に住民参加の区政を目標に、鷺宮でも住区協議会(じゅうくきょうぎかい)が発足しました。地域センターには、区民の活動に利用できるような集会室が設けられ、講演会などいろいろな事業が企画されるようになりました。地域の要望などを受け付ける窓口にもなりました。
また高齢者福祉センターや保育園・図書館・児童館・児童公園・体育館などの開設や整備が次々と行なわれました。鷺ノ宮駅には架橋がかけられ都立家政駅には地下通路ができ、便利になりました。平成12年には鷺ノ宮駅構内にエレベーターも設置されました。

多くの人が移り住んだ鷺宮も、家賃・地価が高騰(こうとう)したことなどから、だんだんと人口増加のスピードが鈍くなり、現在では横ばい傾向になっています。しかし人の流れをよく見てみると、若い世代は出入りが多く、核家族や単身者向けの賃貸アパートなどがふえたことから、地域に根付いた生活をする人々の割合は減ってきています。

人々の生活はより個人的になり、町には24時間営業のコンビニエンスストアが多く見られるようになりました。
このころ以降移り住んだ人々にとっては、鷺宮に住んでいるというより、東京に住んでいるといった感覚の方が近いのでしょう。
しかしながら、ここ鷺宮は、東京の真っただ中にありながら、区内でも珍しくいまだに道端に古(いにしえ)からの道しるべや地蔵尊を目にする事ができる貴重なところです。鷺宮ばやしなど古くからの伝統が残されており、旧家と呼ばれる家の人々は昔から伝わってきた文化風習をいまなお伝えつづけています。

この緑豊かな町並みを、次の世代にも伝えつづけていきたいものです。

(この章、断り書きのないときは「中野区史」および「中野区民生活史」を参考にしました)

鷺宮その昔 (1)/(2)/(3)

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